大判例

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東京地方裁判所 昭和56年(刑わ)1128号 判決

主文

被告人を罰金二〇万円に処する。

右罰金を完納することができないときは、金五、〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。

差戻前の第一審及び当審の訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

(被告人の身上・経歴)

被告人は、昭和一九年に陸軍中野学校を卒業し、若干の軍務を経て終戦を迎え、戦後は、昭和二五年ころから経済安定本部ないし経済企画庁に事務官として勤務し、次いで昭和三二年から株式会社西日本新聞社に論説委員(経済担当)として勤務したが、昭和四三、四年ころ、年来の仏教教義に対する強い関心から創価学会批判書を執筆・出版しようとしたことが原因で同社上層部との間に意見の対立を生じ、やがて昭和四九年七月退社し、以後はかねてからの誘いに応じて東京都中央区銀座三丁目一〇番一九号所在の月刊ペン社の編集局長に就任し、同社が発行する月刊総合雑誌「月刊ペン」の編集に従事するとともに自らもこれに執筆していたものである。

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和五〇年八月ころ、当時表面化した創価学会と日本共産党との間のいわゆる創共協定に対し、教義上の立場から疑問をつのらせ、「月刊ペン」誌に創価学会批判記事を掲載することを企画し、昭和五〇年一〇月号においてとりあえずこれを実行するとともに、これに対する読者の反響をも踏えて、昭和五一年一月号以降は、連続した創価学会批判記事を掲載することとし、特に同年二月号からは、表題にも「連続特集 崩壊する創価学会」と打ち出して特集を組み、ルポライターに執筆依頼した原稿と並んで、別に自らも執筆したものを同誌上に掲載していたものであるが、自ら執筆した記事中において、宗教法人創価学会の教義ないし在り方を批判しその誤りを指摘するに当たり、その例証として、同会の象徴的存在と見られる会長池田大作の私的行動等をも取り上げ、

一 昭和五一年三月一日付発行の右「月刊ペン」三月号誌上において、「四重五重の大罪犯す創価学会」との見出し(八〇頁)の下に、「池田大作の金脈もさることながら、とくに女性関係において、彼がきわめて華やかで、しかも、その雑多な関係が病的であり、色情狂的でさえあるという情報が、有力消息筋から執拗に流れてくるのは、一体全体、どういうことか、ということである。こうした池田大作の女性関係は、なんども疑つてみたけれども、どうも事実のようである。」(八八頁ないし八九頁)、「このような俗界にも珍しいほどの女性関係をとり結ぶ、日蓮大聖人の生まれかわり(!!)、末法の本仏(!!)といわれる“池田本仏”が、煩悩に満ちた現実の人生から、理想の人生への変革を説く清浄にして神聖な仏教を語り、指導する資格は、絶対にない、ということだ。」(八九頁)、「池田大作の女性関係は、その数も多いが、まさに病的であるということ。創価学会の実体は、調査すればするほど日本版『マフィア』という以外に表現のいたしようがない存在であるが、ことさら池田大作自身によつて代表される非常に病的な邪教の実体には、ただただあきれるばかりである。」(九〇頁)旨執筆・掲載した上、合計約三万部の右三月号を、同年二月五日ころ、月刊ペン社において直接頒布したほか、東京出版販売株式会社等を介し、東京都中央区銀座五丁目六番一号所在の近藤書店ほか多数の書店において、佐久間進ほか多数の者に販売・頒布し、

二  前同年四月一日付発行の前記「月刊ペン」四月号誌上において、「極悪の大罪犯す創価学会の実相」との見出し(七六頁)の下に、「戸田・大本仏に勝るとも劣らない漁色家・隠し財産家“池田大作・本仏”」との小見出しをつけ(八七頁)、「彼は学会内では“池田本仏”であり、その著書(?)『人間革命』が日蓮大聖人の『御書』と同じ地位に祭りあげられているにかかわらず、彼にはれつきとした芸者のめかけT子が赤坂にいる。これは外国の公的調査機関も確認しているところである。さらにT子のほかにもう一人の芸者のめかけC子が、これも赤坂にいるようである。ところで、そもそも池田好みの女性のタイプというのは①やせがたで②プロポーションがよく③インテリ風――のタイプだとされている。なるほど、そういわれてみるとお手付き情婦として、二人とも公明党議員として国会に送りこんだというT子とM子も、こういうタイプの女性である。もつとも、現在は二人とも落選中で、再選の見込みは公明党内部の意見でもなさそうである。それにしても戸田のめかけの国会議員は一人であつたので、池田のそれは大先輩を上回る豪華さではある!しかも念のいつたことには、この国会議員であつた情婦のうちの一人を“会長命令”(!?)かなんかで、現公明党国会議員のWの正妻にくだしおかれているというのであるから、この種の話は、かりに話半分のたぐいとして聞いても、恐れ入るほかあるまい。」(八七頁ないし八八頁)、「池田大作が渡米のさいに買つた(?)、当てがわれた(?)という金髪コールガールの話などを踏まえて、学会内部でさえ、昨年中世間をさわがせた共産党と創価学会との十年協定の背後には、女狂いの池田大作が、ソ連訪問旅行のさいに、K・B・G(ソ連秘密情報機関)の手によつて仕組まれた女性関係の弱身につけこまれた国際謀略の疑いさえある、といううがつた説を唱えるものもでている。」(八八頁)と、右記事中、落選中の前国会議員T子は創価学会員多田時子であり、同M子は同会員渡部通子であることを世人に容易に推認しうるような表現で執筆・掲載した上、合計約三万部の右四月号を、同年三月五日ころ、月刊ペン社において直接頒布したほか、東京出版販売株式会社等を介し、前記近藤書店ほか多数の書店において、前記佐久間進ほか多数の者に販売・頒布し、

もつて、公然事実を摘示して池田大作、多田時子、渡部通子及び創価学会の各名誉を毀損したものである。

(証拠の標目)

判示事実全部につき

一  被告人の

1  当公判廷における供述

2  旧第一審第九回ないし第一三回公判調書中の各供述記載部分

3  検察官に対する供述調書四通

4  司法警察職員に対する昭和五一年五月二二日付(第二二項を除く。)、同月二九日付、同月三〇日付(第一三項を除く。)各供述調書

一  旧第一審第一回公判調書中の証人北條浩、同佐久間進の各供述記載部分

一  証人池田大作、同渡部通子の当公判廷における各供述

一  石川孝子の検察官に対する供述調書

一  原田倉治の検察官及び司法警察職員に対する各供述調書

一  田邊和雄(二通)、伊藤寿太郎、安藤龍也こと武井保(第六項を除く部分につき旧第一審において取調済み、抄本提出許可。第六項につき当審において取調済み。)、薬澤寅雄、笹子冨子弥(二通)、今野重利(二通)、橋本孝典(二通)、吉本正治(二通)、吉田雄治、大山金五郎、小笠原芳郎、町田孝治の司法警察職員に対する各供述調書

一  司法警察職員三井今朝光外一名作成の昭和五一年七月一日付捜査報告書

一  押収してある「月刊ペン」昭和五一年三月号及び同四月号各一冊(昭和五六年押第五七〇号の1中の二冊)

一  押収してある封書三通(前同押号の7ないし9)及び同原稿三綴(前同押号の81ないし83)

(法令の適用)

被告人の判示一及び二の各所為は、包括して池田大作、多田時子、渡部通子及び創価学会に対する関係でそれぞれ刑法二三〇条一項、罰金等臨時措置法三条一項一号(名誉毀損罪)に該当する(右各所為は、「月刊ペン」誌上における「連続特集 崩壊する創価学会」の一環として、三月号及び四月号で相連続してなされたものであり、内容的にも、三月号で事柄の大筋を述べた上四月号でこれを具体化したものと見られるから、両者は、これを包括して考察するのが相当である。)。ところで、右は一個の行為で数個の罪名に触れる場合であるから、刑法五四条一項前段、一〇条により一罪として犯情の最も重い池田大作に対する罪の刑で処断することとし、後記情状により所定刑中罰金刑を選択し、所定金額の範囲内で被告人を罰金二〇万円に処し、右罰金を完納することができないときは、刑法一八条により金五、〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置することとし、訴訟費用は、刑事訴訟法一八一条一項本文により、その全部(差戻前の旧第一審及び当審におけるもの)を被告人の負担とする。

(弁護人の主張に対する判断)

弁護人の主張は、多岐にわたるが、その主なものは、次のとおりである。すなわち、

①  本件摘示事実は、被告人がこれを執筆・公表した当時において既に公知の事実であり、被害者とされる者らが新たにこれによつてその名誉を傷つけられたことはないから、名誉毀損罪は成立しない。

②  被告人の本件行為は、刑法二三〇条の二第一項所定の各要件、すなわち「公共性」、「公益目的」、「真実性」をいずれも満たしているから、同条項により免責される。

③  仮に、本件摘示事実につき真実証明がなされていないと判断される場合であつても、被告人には、本件記事を執筆した当時において本件摘示事実を真実と信ずるに足る相当な理由があつたから、名誉毀損の故意がなく、犯罪を構成しない。

大要以上のような理由で、いずれにしても被告人は無罪であると主張し、被告人もこれに沿う供述をして本件を全面的に争つている。そこで、以下それらの諸点につき、当裁判所の判断を順次述べることとする(なお、以下の記述では、更新手続前のものをも含めて、単に「証言」などとして引用する。)。

第一  摘示事実の公知性について

本件摘示事実が世間一般に知られるに至つた時期、範囲やその経過を見るのに、本件全証拠によつても、被告人が本件記事を「月刊ペン」誌昭和五一年三月号、同四月号に執筆・公表した当時において、既に本件摘示事実が少なくとも一定の広がりをもつ範囲に知れわたり公知と言える状態に達していたことを認めさせるに足りるほどの証拠はない。例えば、摘示事実のうちで最も広まつていたとされている池田と渡部の関係についてみるのに、弁護人らがその点の事情に最も通じているとし、また創価学会(以下単に学会ということがある。)の監視役を自認する元毎日新聞記者の内藤国夫は、池田・渡部関係のうわさを聞いたのは昭和五二年が最初であつたと言い、弁護人申請に係る脱退会員の羽柴増穂も、そのうわさを聞いたのは本件記事よりも後であつたと言い、また週刊新潮編集部の福永修も、そのようなうわさがあることは本件記事によつて初めて知つたと述べ、そろつて右事実の公知性を否定しているのである。このように、各供述がその点につきいずれも一致し、かつ各供述ともその前後のつながりからそれぞれ納得できる文脈のもので、しかもこの点につき各証人が格別作為する必要のない立場にあること等に照らしてみると、右は十分措信できるものと考えられる。これに対し、元創価学会顧問弁護士山﨑正友は、昭和四五年当時において週刊新潮編集部は池田・渡部間の特殊関係を察知しており、自分は創価学会側を代表して同編集部と折衝する過程でそのことを相手方から聞かされたと証言するが、前記福永が、当公判廷での証言中において、週刊新潮編集部の側からそのようなことを山﨑に話したことはない、仮に池田・渡部間の特殊関係を当時把握していたとすれば同編集部としてはためらうことなくこれを記事にしていたであろうと述べていること等からみて、山崎の右証言はたやすく措信できない。結局、本件「月刊ペン」誌以前の記事で、この種の内容に触れていたものとしては、池田と芸者T子との関係に関する週刊新潮昭和四五年四月一八日号が目につく程度にとどまる。しかし、同号に「池田大作会長『ナゾの四十日』と“疑惑の女”石井孝子」という見出しの下に、両者間の男女関係を取沙汰する記事が掲載されていることは認められるが、右記事は、よく読むと、男女関係の存在を断定するという文脈のものではない上、男女関係の存在を否定する「石井」(本名の「石川」を仮名化したものと認められる。)本人の談話をも併せ掲載していて、全体として見れば、摘示事実にある男女関係を一部分なりとも肯定し公知化したものなどとは到底考えられない内容のものと認められる。そして、右以外には、この点が公知になつていたことを示す証拠は見当たらないのである。むしろ、関係証拠によると、本件記事が公にされることを知つて創価学会側がこれを深刻な事態と受けとめ、その対策に躍起となつた様子が認められるのであり、これは、本件摘示事実がまだその当時公知となつていなかつたためと考えるとき、最も自然に理解することが可能になると感じられるのである。

以上の次第であるから、本件摘示事実が、本件記事の執筆・公表時において、既に公知となつていたとの主張はその前提を欠き、採用することができない。

第二  刑法二三〇条の二第一項による免責について

一 本件摘示事実の公共性について

被告人が本件「月刊ペン」誌上に摘示・公表した事実が刑法二三〇条の二第一項にいう「公共ノ利害ニ関スル事実」に係ることについては、既に本件の差戻しを決めた上告審判決(最高裁判所第一小法廷判決昭和五六年四月一六日刑集三五巻三号八四頁)において明確な判断が示されている。すなわち、同判決は、「被告人が執筆・掲載した前記の記事は、多数の信徒を擁するわが国有数の宗教団体である創価学会の教義ないしあり方を批判しその誤りを指摘するにあたり、その例証として、同会の池田大作会長(当時)の女性関係が乱脈をきわめており、同会長と関係のあつた女性二名が同会長によつて国会に送り込まれていることなどの事実を摘示したものであることが、右記事を含む被告人の『月刊ペン』誌上の論説全体の記載に照らして明白であるところ、記録によれば、同会長は、同会において、その教義を身をもつて実践すべき信仰上のほぼ絶対的な指導者であつて、公私を問わずその言動が信徒の精神生活等に重大な影響を与える立場にあつたばかりでなく、右宗教上の地位を背景とした直接・間接の政治的活動等を通じ、社会一般に対しても少なからぬ影響を及ぼしていたこと、同会長の醜聞の相手方とされる女性二名も、同会婦人部の幹部で元国会議員という有力な会員であつたことなどの事実が明らかである。」とした上、「このような本件の事実関係を前提として検討すると、被告人によつて摘示された池田会長らの前記のような行状は、刑法二三〇条ノ二第一項にいう『公共ノ利害ニ関スル事実』にあたると解するのが相当であ(る)。」と判示しているのである。右は、最高裁判所が本件に即して、同条項の解釈・適用に関する具体的な判断を示したものであるから、同判決による差戻後の第一審である当審としては、裁判所法四条の趣旨に基づき、同判決の判断に従うべきものである。

これにより本件記事は、他人の私行上の行状を摘示しているものの、単純なスキャンダル記事ではなく、公共の利害に関する批判の枠内にあるとの法的評価を受けることとなり、したがつて、そのような評価をしていなかつた破棄差戻前の旧第一審判決や同控訴審判決とは大きく評価の観点を異にすることとなつた。本件の判断に当つては、基本的なこの違いを明確に認識しておくことが必要である。

二 本件事実摘示と公益目的の有無について

本件記事が公益目的に基づき執筆、掲載されたものと認められるか否かは、記事の内容・文脈等外形に現れているところだけによつて判断すべきことではなく、その表現方法、根拠となる資料の有無、これを取り扱うについての執筆態度等を総合し、それらが公益目的に基づくというにふさわしい真摯なものであつたかどうかの点や、更には記事の内容・文脈等はどうであれ、その裏に、隠された動機として、例えば私怨を晴らすためとか私利私欲を追求するためとかの、公益性否定につながる目的が存しなかつたかどうか等の、外形に現れていない実質的関係をも含めて、全体的に評価し判定すべき事柄である。

ところで、当該記事の内容・文脈等の外形だけからその点の判別が可能な場合、例えば他人の私行上の行状を正当な理由、文脈上の必要等もなしに専ら興味本位に摘示しているスキャンダル記事等の場合には、その点の判定は明白・容易であり格別の問題も生じないであろうが、記事の外形上は公益目的によると見られる体裁を一応保持している場合、例えば、本件記事のように、他人の私行上の行状を摘示してはいるが、それが前記のとおり公共性を有する事実に関する批判の一例証であつて、文脈上の必要があるため摘示されていると見られるようなときは、他に格別の事情でも存しない限り、記事内容に現れている通りの公共性ある批判を意図したに過ぎないと受け取るほかないことが事実上多いから、それにもかかわらず、記事内容には公共性があるがこれを摘示した真の動機は公益目的によるものでない等の主張をするためには、例えば表現方法やその執筆態度等が真摯なものではなく、それが公益目的を認定する妨げになるとか、あるいは記事公表の裏に金銭目当て等の隠された別の目的がある等の具体的事情の指摘やその立証を要する関係になるものと考えられる。

そこで、右の点を本件について見るのに、本件摘示事実中、池田らの不倫な男女関係に関する部分は、前記のとおり、公共的批判の一内容として引例・摘示されているとは言うものの、その表現方法には、かなり侮辱的・嘲笑的なものがあつて、全体として品位に欠けるところがあり、その外形上、全面的に真摯な批判と評価し得るか否か疑問とされる点があること、しかもその部分には初対面の安藤龍也こと武井保から突然被告人の許へ持ち込まれたいわゆる安藤情報をかなりの範囲にわたりやや安易にそのまま転載して記事化した形跡が認められ、この点につき被告人が、その当時後述のように他にも類似の情報・資料を入手していて、それらと照合して検討したと述べることを考慮しても、なお全体として調査不十分の状態での執筆・公表という実態を否定し切ることはできないこと、更に「月刊ペン」の発行部数が二月号まで約一万六〇〇〇部であつたのに、本件三月号からは約二倍の三万部と大幅に増加しており、そこに売上げ増進というような経済目的の存在をうかがわせる事情があること等に照らして考えると、執筆の姿勢にやや行き過ぎがあつたのではないかと感じさせるものがあり、この点を強調して公益目的を否定する検察官の主張にも一面うなづける点がないではない。

しかしながら、本件記事の執筆・公表は、被告人の創価学会に対する年来の批判活動の一環と見られるので、本件記事執筆以前の一連の批判活動及びその周辺事情にも目を向け、それらとの関連をも考慮して本件記事執筆の目的を探索してみる必要があるところ、被告人は、かつて西日本新聞の論説委員を務め、その後の文筆歴によつてもいわゆるブラックジャーナリスト的活動をしたことはない人物で、相当以前から仏教の教義・教説等主として思想面に強い興味を懐き、社会的に大きな影響力を持つ創価学会に対しては、かねてからその教義ないし在り方の点で疑問を持ち、昭和四三、四年ころ既に「創価学会公明党の破滅」及び「創価学会・公明党の解明」等の創価学会批判書を世に問うなどしてそれなりに真摯な教義批判の活動を続けてきた経過のある者であつて、その間、批判の姿勢が不まじめであつたことをうかがわせる事情は認められない。そして、本件各記事を含むそれぞれの論稿も、全体としてこれを読めば、学会に対する従前からの批判姿勢と軌を一にするものであつて、裁判所としてはその批判内容の当否には全く介入するものではないが、それなりに真摯な心情に発したものと認めることができるのである。そのことは、本件記事に客観的に現れているところからも一部看取することができる。すなわち、本件各記事は、「月刊ペン」誌上で昭和五一年一月号から始まつた創価学会批判キャンペーンの一環として、三月号、四月号に至つて初めて執筆・掲載されたものであつて、右キャンペーンは本件が摘発された同年六月以降も続けられたのであるが、いま摘発前に執筆済であつたものに限つてみても、同論説全体を通じての大きなテーマが教義批判を主とするものであることは明らかであり、男女関係の問題だけを唐突、興味本位に取り上げたという体裁のものではなく、その教義ないし在り方との関連において、ともすれば難解で一般読者に理解されにくい傾向のある批判内容を、例証により具体的に示そうとした意図をうかがうことができるのである。そして各号の記事を個別的に見ても、三月号は、一六ページにわたる論文のうち池田の女性関係に触れた部分はわずかに一ページ弱の分量に過ぎない。しかも、第二代会長戸田及び初代会長牧口については、「知られない創価学会発会前の戸田・牧口常三郎(初代会長)の乱行」などとゴシック体の小見出しがついているのに対し、池田については、当該部分の小見出しは「池田大作著『人間革命』その他は代作」というものであつて男女関係の問題がことさらに強調された体裁になつているわけでもない。また、四月号は、その小見出しこそややエスカレートして「戸田・本仏に勝るとも劣らない漁色家・隠し財産家“池田大作・本仏”」などとしているものの、その分量は、二三ページに及ぶ記事中の二ページ分程度にとどまつている。次に、本件各記事が表現方法の点でやや激しく、いわば若干感情が先走つたとも見える表現となつた背景には、被告人がかつて創価学会批判書を公刊しようとした際同学会側から組織ぐるみの妨害を受けたことをも含めて、従前学会から受けた働きかけにより、学会の体質に一層疑念を深めていたという特殊・特別の事情が存在するようであり、表現上の激しさは両者間のそのような経緯その他を踏えた上で理解する必要があるのであつて、これを直ちに私怨に結びつけて理解するのは適当でない。また、事実調査の程度については、それが十分なものと言えるか否かは別として、安藤情報に符合するような話が従来からある程度被告人の耳に入つていたことは、後述のとおり否定し難い事実であると思われ、全く裏付けなしの捏造という執筆態度ではなかつたと認められる。更に、部数増加の点については、営利目的をうかがわせる一面も全くないとは言えないかも知れないが、他方、学会批判が出版社の側から見て一種の佳境に入り売れ行きの著しい増加が期待できるときに、これに対応した措置を採るのは、商業ベースの雑誌としては極めて自然なことであつて、特別異とするほどの事態ではないとみられるし、本件三月号及び四月号の前後を通じ、そのときどきの情況に合わせて部数は適宜変動しており、もとより三月号及び四月号だけを増部したのではなく、その後もしばらくは増部状態の続いた様子が認められること等を考慮すれば、この点を特に重大視するのは全体評価の上で相当でないと考えられる。

以上のようにあれこれ勘案してみると、一般的には、本件各記事の、特に表現方法にはたやすく公益目的を肯定し難い点が一部見受けられないではなく、また本件記事中でそのような表現方法がどうしても必要であつたとも考えられないが、右に述べたような本件記事執筆をめぐる具体的な諸事情の下では、全体として、本件各記事執筆の少なくとも主たる動機は、創価学会に対して強大な指導性を有していた池田会長や同婦人部幹部で国会議員の経歴がある有力会員らの間の男女関係を例証として指摘しながら、多数の信徒を有する創価学会の教義その他をめぐる宗教的側面、更に同学会が政治的にも又は経済的にも社会一般に少なからぬ影響を及ぼしている各側面等を批判し、その誤りを指摘しようとする点にあつたものと認めることができ、右は結局公益目的の枠内にあるものと理解されるので、刑法二三〇条の二第一項との関係では「専ラ」公益目的で執筆されたものと評価するのが相当である。

三 本件摘示事実の真実性について

本件摘示事実の真実性を判断する前に、その前提となる若干の事項について触れておくこととする。

その一は、本件における真実証明の対象は、男女関係の風聞があるということではなく、男女関係そのものが存在するという点にあるということである。すなわち、本件各記事は、それぞれの男女関係の存在を直截に事実として摘示するのではなく、そのような風聞等があるという表現方法をとつて表面上は一歩距離を置いた形をとつている。しかし、それが風聞等を実体とは切り離した上で風聞自体として述べようとするものではなく、風聞等を伝える体裁をとりながら、実はそのような実体があることを示唆しようとする趣旨のものであることは、その記載内容に照らして明白である。したがつて、真実証明の対象になるのは、風聞等ではなく、その内容となつている事実自体であると言わなければならない。

その二は、真実証明の対象として枢要なものは、摘示事実中具体性のある男女関係の事実であり、同じく男女関係の事実ではあつても内容が漠然としているものは、これに比べれば全体の中で従的な意義を有するにとどまつているということである。すなわち、本件各記事は、まず三月号において、池田の概括的な女性関係につき、「とくに女性関係において、彼がきわめて華やかで、しかもその雑多な関係が病的であり、色情狂的でさえある」「俗界にも珍しいほどの女性関係をとり結ぶ」「池田大作の女性関係は、その数も多いが、まさに病的である」などと女性関係の面で節度が欠けていることを一般的な形で述べた上、次いで、四月号において、これを更に具体化し、「彼にはれつきとした芸者のめかけT子が赤坂にいる」「もう一人の芸者のめかけC子が、これも赤坂にいる」「お手付き情婦として、二人とも公明党議員として国会に送りこんだというT子とM子」「池田大作が渡米のさいに買つた、当てがわれたという金髪コールガール」「女狂いの池田大作が、ソ連訪問旅行のさいに、K・B・G(ソ連秘密情報機関)の手によつて仕組まれた女性関係」などと同人に関する個別的な女性関係を摘示しているのであるが、ここで指摘されている男女関係のうち、右のような意味で具体性があり枢要と考えられるのは、差し当り池田とM子(証拠によれば渡部)、池田とT子(同多田)、池田と芸者T子(同石川)間の男女関係であると認められ、それらの各事実について真実証明があるか否かが本件全体の帰趨を左右するほどの重要性を持つていると言つても過言ではない。そこで、以下では、まず右の点に重点を置きながら真実証明の有無について検討することとし、その余の池田と芸者C子、池田と金髪コールガール、池田とKBG(K・G・Bのことと思われる。)関連女性間の男女関係及び池田の概括的な女性関係については、その後にまとめて触れることとする。

その三は、本件における証拠、とりわけ証言の信用性を判断するに当たつては、昨今創価学会とこれから脱退した者らで組織する団体その他の者等との間で激しい対立が生じているという背景に十分の留意が必要だということである。すなわち、このようないわば抜き差しならない骨肉の対立が背景にある場合には、一般に、証言内容にもとかく党派性が直截に反映しがちと考えられるのであり、それだけに裏付け証拠に欠けている証言の信用性を判断するに当たつては、おのずから慎重な態度を採らざるを得ないという事情が存在するところ、本件ではその傾向が特に強いように感じられるからである。そして、複数の証人が同様の証言をしている場合であつても、それらの証人が同じ側の組織関係者であるようなときは、各証言が相互を補強し合つてその信用性を高めているとばかり単純に考えることのできないところがあるのであつて、党派性が証言内容に反映していないかどうかを一層慎重に検討する必要があるとも言えるのである。このことは、もとより当該証人がいずれの側に同調している場合であつても同様にあてはまることと言える。

以上のような前提を念頭に置きながら、以下真実性の点について個別的に検討していくこととする。

1池田と渡部の関係について

池田と渡部の関係については、当審において双方当事者が証拠調べに最も力を注いだところであり、右両名の間に特別な関係があつたことを示唆するような具体的な場面の目撃証言などもされているので、これらについて各別に見ていくこととする。

(一) 証人小澤ヨネ及び同飯野なみは、そろつて「昭和二九年秋に渡部の実家である大宮市所在の松島勇方三畳間において、池田が風呂上がりらしく全裸で立ち、その前に渡部がバスタオルを持つてひざまずいている現場を目撃した。」と証言している。

これに対し、当の池田及び渡部は、そのころ松島方で池田と渡部が出会つたことはないとして強くこれを否定しているほか、松島方の関係者である高根美枝、米山美枝、松島淑らは、昭和二九年秋にはそもそも右三畳はまだ増築されていなかつたとして、右証言を争つている。

ところで、小澤及び飯野の右目撃証言は、本件記事が執筆・公表された時点を基準としてみてもそれより約二〇年位も前のでき事に属するので、このように古い事実が本件記事の真実立証にどの程度資するものとなり得るかについては、一考を要する点があると思われるのであるが、その点はひとまず置き、差し当たり右証言の信用性につき検討することとする。

まず、右目撃証言は、その内容が極めて詳細かつ具体的であつて内容的には迫真性に富み、実際に体験した者でなければ語り難いと思われる部分を少なからず含んでおり、真摯な供述振りとも相まつて、証言内容に沿う事実の存在をうかがわせる面があることは一応これを認めることができる。そして、小澤証言によれば、小澤は、この目撃事実については、その後概して他言しないできたのであるが、昭和五六年六月正因寺において檀徒の人々と雑談中、話の成り行きからふとこれを口にしたところ、その場に偶然被告人が居合わせていて、本件公判で証言してくれるよう依頼され、学会脱退者の置かれている立場に対する同情や共感から、あえて公の場所へ出て供述する気になつたというのである。しかし、他方、小澤は、言うところの現場を目撃した直後ころから池田及び松島家の者から様々な働きかけややがて非難をも浴びせられて学会から次第に疎外されていくようになつたというのであるから、同女の気性や自然な感情からすると、右のごとく正因寺の集りで口にするぐらいならば、それより前疎外されるに至つた前後ころにでも、右目撃事実を持ち出すなどして学会側に対抗しようとしていてもよさそうなものと感じられるのに、なぜその時点では声を大にして語ろうとしなかつたのか、逆に目撃事実の内容が公開をはばかられる性質のものであるためにあえて長期間にわたつて沈黙を守つてきたというのであれば、なぜ檀徒の人々との雑談の際などという程度の軽い機会に、求められもしない状況の下でそれを口にするに至つたのか、またそこに被告人が居合わせたというのは本当に偶然と見てよいのか等、やや理解に苦しまざるを得ない点があることも否定し難い。

次に、昭和二九年秋の時点において松島方に問題の三畳間があつたか否かについて見ると、それが三〇年近くも前のことであるだけに、この点を客観的に明らかにする確かな証拠は見当たらない。例えば、そのころ三畳間に渡部が北海道からみやげに持ち帰つたマリモがあつたという甲賀平の証言は、具体的で一見信頼できそうであるが、よく確かめてみると、肝心の時期の点がはつきりしないし、また、一見客観的な証拠であるかのように思われる当時の市勢要覧「おゝみや」(昭和五六年押第五七〇号の44はその写真)中の航空写真は、問題の部分が余りにも小さ過ぎて細かい点を見分けることは困難である上、最も大切な撮影時期のデータがあいまいなため、ほとんど証拠価値はない。更に、当時松島方に現に居住していたとされる松島淑、米山、高根等学会側証人は、当時三畳間は存在しなかつた旨一致して供述するので、現に住んでいたことのある者の証言として一般的には単に松島方に出入りしていただけの者の証言よりは、その供述を重しとすべきではあろうが、これについても種々難点がある。例えば、当初公判に現れた松島規作成の松島旧住宅の見取図には、大宮会館移転前のものとしながら三畳間が描れているが、公判でどのような点が、どのような角度から問題になつているか関係者にはほぼ察しがついていたと思われる時期に作成されたもののようであるだけに、やや不可解であるし、また、同居していたという米山の証言は、それにしては余りにも記憶が正確さに欠ける嫌いがあるとの印象を拭えないばかりでなく、同じく同居していたという高根は、三畳間の存在を否定する証言をする一方で、逆に三畳間の存在を認めるようなことも口走つたりしており、同女が正にこの点を主たる立証趣旨とする証人であつたことを前提にすると、これを単なる言いまちがいに過ぎないものとして軽視してよいか問題なしとしないようにも感ぜられるのである。小澤証言等は三畳間完成時期と微妙に関連しているだけに、右の点に曖昧さが残るのである。

また、当時池田が松島方にしばしば出入りしているとの背景的事清があつたか否かについて見ると、池田の当時の勤め先である大蔵商事(戸田城聖が実質上経営していた金融会社)に資金を提供していた関係で戸田と懇意であつた甲賀証言等によれば、当時池田が右金融の仕事の関係で大宮地区に再三足を運んでいた事情は十分うかがうことができ、松島方が学会活動上同地区の拠点になつていたことと対照すれば、そのような機会に池田が松島方へしばしば立ち寄つていたとしても不自然でない関係にあり、現に池田自身及び松島淑も昭和二九年六月ころ池田が後年学会幹部となつた中西治雄と二人で松島方を一度訪れたことがあつたという点はこれを認めるところであるが、しかし、他方、小澤及び飯野の各証言を除けば、池田が松島方へ頻繁に出入りしていたとか一人で来訪したことがあつたとかいう事実を認めさせるような証拠はないと言わなければならない。

こうしてみると、本件三畳間におけるでき事については、時間の経過ということもあつて、現在においては、当事者双方とも決め手を欠いた状態にあると言うべきであり、これを真実証明という側面から見れば、小澤及び飯野の各証言が確かな裏付けに欠けているということに帰着する。そして、小澤、飯野が証言時においていずれも反学会的立場にあることを併せ考えると、同人らの目撃証言を現在の証拠関係の下でそのまま真実と断定することにはなお躊躇せざるを得ない点があるという意味において、この点の真実証明があつたものと認めるには足りないと言わざるを得ない。

(二) 証人原島嵩は、「昭和三二年一月二日か三日、池田方において、渡部が横になつた池田の胸や腹をさすりながら、『池田先生と結婚したい。』などと話すのを目撃した。」と証言している。

これに対し、当の池田及び渡部は、その年の正月に渡部が池田方を訪ねたことはないとして全面的にこれを否定している。池田証言によれば、「その年の一月二日の誕生日にも例年どおり静岡の総本山に参詣していて帰宅したのは遅かつたし、翌三日については具体的な記憶はないが、当時の資料等によると一日中多数の客が来ていたようであり、原島とも渡部とも会つたかどうかわからない。」というのである。

ところで、原島の右目撃証言についても、ややでき事が古過ぎるのではないかという問題があることは前同様であるが、その点をひとまず置き、まずその信用性について検討することとする。

この点に関する原島の証言は、その内容が極めて詳細かつ具体的であり、単なる作り話とは思われないような部分もないではない。しかし、その内容を更に細かく検討すると、疑問に感じられる点も少なくない。例えば、そのような場面を池田方で目撃したというのであれば、事柄の性質上池田夫人が当時在宅していたか否かは、最も気にかかる事柄であつたはずで、渡部の行動についての記憶と一体のものとして結びついて残つていそうなものなのに、その点についての記憶があいまいであるのはどうしても解しかねる。また、原島は、そのような目撃をした時期について、「昭和三二年一年二日又は三日であつたと思う。池田は、自分の誕生日のころに極く親しい人を呼んでいたが、このときは私と兄が呼ばれた。」旨述べるのであるが、聖教新聞(昭和三二年一月一三日付)中の初登山に関する記事の記載と対比すれば、一月二日の総本山参詣についての池田証言は納得し得るものと考えられるし、また、一月三日についても、池田方における正月の情景としては、「文京支部の幹部の人その他三十数名くらいの来客があつて遅くまで多忙であつたらしい。」とする池田証言のほうがより自然であるようにも思われる点がある。

こうしてみると、原島の右目撃証言も、確実な裏付けを欠いているだけでなく、内容上も疑問があり、かつ、証言時の同人の立場をも考えると、直ちに供述通り信用することはできないと言うべきである。

(三) 原島は、「昭和四七年七月ころ、雪山坊三階の池田専用施設において、渡部が池田の胸をマッサージしながらメロンを食べさせていた。このほかにもマッサージを見たことがある。」と証言し、山﨑も、「昭和四七年ないし五〇年ころ、白雲寮、光亭、雪山坊などにおいて池田が横になると、渡部がベルトをゆるめたり、ブレザーを脱がしたり、胸・腰をマッサージしたりするのを見た。」とこれに符合するような証言をし、共に、それらは池田と渡部との特別な関係の一端を示していると述べている。

しかし、当の池田、渡部は、これを全面的に争い、胸のマッサージなどは一度もないと強く否定している。

ところで、原島及び山﨑が目撃したとする右のような事実は、仮にそれが真実であつたとしても直ちに男女関係に結び付くというような性質の行為とは受けとることはできず、本件記事の真実立証という観点からすればかなり隔りがある行為と見なければならない。しかも、その供述は、全体に、時期、機会や居合わせた人物の特定などの面で漠としている点が多く、右の事実を摘示された池田、渡部らが反論しようとしても具体的にはなし難い点が多いように見える。また右両名の証言は、いずれも、確かな裏付けを欠いた状態にあるほか、原島のみならず山﨑も現在学会と激しく対立する立場にあることを併せ考えると、その証言を額面どおりに受け取ることはできない。

(四) 証人内藤国夫は、渡部の近親者や現に学会中枢部にいる協力者らから、また、同羽柴増穂は、同女の近親者から、「同女が大学生当時から池田と親密であつたこと、その関係は、その後も続き、近親者間にも渡部と池田との関係を取沙汰する話があり苦悩していることその他を聞いた(聞いた時期につき、内藤は昭和五二年以後、羽柴は同五四年六月ごろであつたという。)」と証言している。

しかし、同人らは、他方そのような話をした近親者等の氏名等情報提供者の特定にかかわることは述べようとせず、曖昧な供述に終始している。そのため右証言によつては同人らが近親者から聞いたというのが真実であるかどうか、またどの程度具体的な話を聞いたのか等の裏付け、確認のしようがないだけでなく、その近親者はそのような事実を、何故、またどの程度正確に知つているのか、直接知つているのか伝聞なのか、更にどの程度根拠のある話なのか、その近親者の一般的信用性はどうかなど一切明らかでない。このような状態のままでは、摘示の相手方である池田及び渡部らとしても、その証言中で一般的に否定している以上に個別的・具体的に反論しようとしても出来ないと言わざるを得ないし、検察官としても対応のしようがない。相手方に反論や証明力を争う機会を与えようとしないこのような証言に訴訟手続上信用性を認めることなど余りに危険であり、到底できるものではないことは明らかである(前記両証人は近親者の立場に対する配慮から氏名等を明らかにできないかのごとくにいうが、真実そのような理由によるものかどうかさえ、右の証言によつては確認できないのである。更に言えば、元来、証言内容に信用性を持たせようとすれば、情報提供者等をも挙示しなければ目的を達しないし、逆にこれを伏せるときは、証言そのものの信用性が高く受けとめられなくなることは当然であつて、情報の根拠を伏せたまま、証言の信用性だけは高く、というような態度が受けいれられるものでないことは明らかであろう。なお、弁護人らからは、この点の裏付けにふれる立証申出はない。)。

(五) 以上のような証言が結局は一種の水掛け論に終わつているのに対し、渡部らの口から出た話が印刷物として残つているものは、基礎的な事実関係がはつきりしているという点で趣を異にしている。弁護人は、そうしたものの中から以下のような渡部自身の発言等を指摘し、これを立論の一根拠に引いている。すなわち、

① 「前進六〇号」(昭和四〇年五月、創価学会発行。同押号の71)の座談会中の「横須賀へいつしよに折伏にいつた帰り道、夜の寒い電車の中で、膝の上で、私の持つていた写真の裏に『天空を飛び 大宇宙に舞い 永遠に悠久の革命の乙女よ』という歌を書いてくださいました。いまだに宝だと思つております。」などとの記載(なお、同様の記載は、聖教新聞昭和三九年五月二三日付記事にも見られる。)

② 「私の体験第三巻」(昭和四三年一〇月、創価学会女子部発行。同押号の73)手記中の「涙の思い出を綴れば、涙もろい方の私は、その当時、部隊の前進に一人悩んで、ある日地区の二階で人知れず泣いてしまつたことがあつた。折も折、突然トントンと、池田先生が階段を上がつてこられたのである。ハツ!と思つた瞬間はもう遅い。『泣くんじやない。涙は広宣流布の暁に、たつた一度、嬉し涙を流せばよいのだ』――。何たるきびしさ!何たる抱擁!何たるひとこと……、以来私は、意気地なしの涙だけは流さないと決めてきた。」との記載(なお、同様の記載は、「前進六〇号」にも見られる。)

③ 「たんぽぽ三〇号」(昭和五四年二月、創価大学女子学内たんぽぽ編集局発行。同押号の74)インタビユー記事中の「また(学生時代に)自転車で多摩川べりに連れて行つて頂いた時など、夜空をさして『この星が全部、来世は君のダイヤモンドになるんだよ』などと話して下さつたり……先生はロマンティックな方です。」との記載(なお、聖教新聞昭和三九年五月二三日付記事中にも、「(池田会長は)『通子、星を見上げてごらん。来世に生まれてくるときは、あの星はキラキラ光るダイヤモンドになつてかえつてくる。』と多感なおとめの心を慰めてもくれた。」旨同様の記載がある。)

そこで、これらの内容を検討すると、その中心的な意図が宗教上の師弟関係を強調したものであることは容易にうかがわれるが、単にそれのみにとどまらず、池田と渡部間の極めて近しい間柄をことさらに示唆しているとも受け取られかねない文脈、内容のものであることは否定し難く、その内容がいずれもかなりの時を隔てて一度ならず学会関係部局の刊行物に登場しているだけに一層注目されるのである。特に、「月刊ペン」の本件記事が公になつて学会周辺が大騒ぎとなり、公訴が提起されるなどし、これを巡つて二人の関係が取沙汰されやすくなつた後の昭和五四年という時期に、③のダイヤモンド云々のような見方によつては微妙な内容を含む記事が当事者の一人から語られ、それが限られた範囲内ではあつても印刷配布されたことは、人目を引くに十分であるとも言えるであろう。なお、池田は、当公判廷において、右③の記事につき、そのようなことはあつたが、渡部と二人だけではなく、その場には他にも十数人の者がいたとし、その記事が二人だけの間の会話であるかのように読めるのは、言葉の綾である旨証言しているが、そうすると渡部が実際には大勢の人がいたのにそれを二人だけであつたかのように脚色して公にしたことにならざるを得ないが、そのようなことは、よほど特異な事情でもない限り一般には想定し難いと思われる。

しかし、そうは言つても、これらの記事から直ちに池田と渡部間に男女関係があるなどと断定するのが早計に過ぎることも多言を要しないところである。渡部が人目をはばかることなくこれらの記事を公にした真意はやや測りかねるものがあるが、さしずめ池田から親しく指導を受けたことを強調することに主眼があり、それは渡部の気質と無縁ではないとでも考えるほかなく、右記事をもつて直接男女関係の存在に結び付けようとするのは余りにも飛躍があると言わざるを得ない。

(六) その他弁護人は、池田が血液鑑定を受け、渡部の子供との間の父子関係の不存在を明らかにしようとした点をとらえ、それはとりもなおさず両者間に男女関係があつて、そのため鑑定を受ける必要があることを自認したものにほかならないなどとするが、鑑定を受けたというだけでそのように言うのはあまりに我田引水的解釈にすぎる。

(七) 以上、池田と渡部の関係にまつわる個別的な証拠関係について検討したが、そのいずれをとつてみても、男女関係の存在を明らかにするほどのものは遂に見当たらなかつたと言わざるを得ない。また、これら全部を併せて総合的に鳥瞰してみても、やはり男女関係の存在を推認させるに足るだけの状況としては到底不十分である。結局、池田と渡部の男女関係について真実証明はなされていないと言うほかはない。

2池田と多田の関係について

池田と多田の関係については、池田と渡部の関係についてとは著しく様子が異なり、本件証拠上これに言及するものは少なく、わずかにこれに言及している原島証言、山﨑証言等も、単なる風聞ないし推測を根拠とする域を出ないものであつた。また、「第三文明」七七号(昭和四二年七月、第三文明刊行会発行、同押号72)中の多田執筆の手記「草創期の女子部とともに」には、多田が他の幹部とともに池田方で鯛をふるまわれたこと、別の機会で一人で池田方を訪れレコードを聴かせてもらつたこと等について触れている部分があるが、これらは宗教上の師弟関係について述べるという以上のものではなく、問題とするほどのものとは認め難い。そうすると、男女関係の有無について本件訴訟手続上多田本人に事情を確かめなければならないほどの素材が提供されたとは認められず、当裁判所が多田を証人として喚問しなかつたのもそのような証拠関係の実質を考慮したためであり、結局池田と多田の男女関係につき真実証明がなかつたことは詳説するまでもなく明らかである。

3池田と石川の関係について

池田と石川孝子の関係については、前記のとおり、昭和四五年刊行の「週刊新潮」に池田大作会長『ナゾの四十日』と“疑惑の女”石井孝子」と題する記事が載り、関係証拠によれば右「石井」は赤坂で芸妓をしていた石川孝子のことであると認められるが、しかし、右記事自体、池田と石川の男女関係を断定するような趣旨のものでないことは既述のとおりであるし、当時「週刊新潮」の編集ないし取材を担当していた福永修、戸田哲夫さえも、男女関係を否定する石川の話が嘘のように思われなかつたと証言しているところである上、「週刊新潮」の記事の情報源の一つをなしたとみられる稲垣和雄の証言は、風聞の域を出るものではないと本人自ら認めているものであつて、真実証明の資料とするにはほど遠いと言わなければならない。そして、石川本人の検察官及び司法警察職員に対する各供述調書によれば、石川は、池田と酒席で会つたことはあり、その際池田から身請けしよう、外国へ連れて行こう、ダイヤを買つてやろうなどという話が出たことはあるが、もとより酒の上でのその場限りのやりとりであつて、個人的な交際は全くなかつたというのである。なお、池田は、当公判廷において、石川ら芸者に対して身請け云々の話をしたことなどは全くないと証言するが、石川は、創価学会は嫌いであるとしながらも、学会側、反学会側のいずれにもくみしない立場にあると考えられるところ、同人が池田との妾関係を否定する点では真実を語る一方で、ことさら身請け云々の点についてだけは虚言を述べているとは考え難く、酒席であつてみればその程度の話が座興に出ても格別おかしくないとみられるのであつて、全体として石川の供述は十分措信するに足るものと考えられる。右石川の供述に比べれば、池田の供述は石川との関係を否定しようとする余り、酒席の模様を一律に否定し過ぎているとの印象を拭うことができず、少なくとも池田の右証言をそのままに受け取ることは難しいと感じられる。しかし、そうであるとしても、酒席でのこの程度の言葉を直ちに男女関係に結び付けるのは何と言つても無理であり、結局、池田と石川の関係についても真実証明がないことに帰着することは明らかである。

4池田と芸者C子、金髪コールガール、KGB関連女性の関係について

池田と芸者C子、金髪コールガール、KGB関連女性の関係については、摘示された事実がそもそもはなはだあいまいであり、弁護人・被告人側において特に見るべき立証はなかつたものであつて、真実証明はなされていないこと一見明白である。

5池田の女性関係一般について

次に、本件記事中には、池田は女性関係一般において節度に欠けていたとか、女性関係が華やかで色情狂的であるといつた摘示がなされている部分があるが、右は、具体的な事実摘示としての色彩が薄く、具体的な摘示部分についての立証さえ前記のとおりである本件では、これに関する真実証明の有無が本件訴訟の帰趨を左右するほどの意味合いを持つているとは考えられない。

思うに、本件審理上当面必要なことは、前述した具体的摘示事実をめぐる真実証明等の問題であり、この事実を離れた一般的女性関係の問題ではない。一般的な女性関係の問題は、具体的摘示事実をめぐる立証に役立つ限度、例えば、これを肯定しあるいは否定する証言等の信憑性判断に必要な場合等にその範囲で考慮すれば足りると言うべきである。特に、一般的な女性関係につきこと細かい詮索をしようとすれば、場合によつては、男女関係という他人のプライバシーに属する事柄について、立証上必要やむを得ない場合でもないのに不当に介入しすぎ、これを侵害する結果につながりかねない契機を含んでいることにも留意する必要があるであろう。そのような観点から、当裁判所は、本件審理中、証拠調べの重点と範囲を第一義的には明示された個別的、具体的な男女関係の存否の点に置き、一般的な池田の女性関係については、その都度、全体を理解しあるいは証言等の信憑性を判断するために必要な限度で立ち入るのにとどめてきたのであるが、そうした制約の下に現れた若干の点について以下触れておくこととし、それが前記各認定に影響するか否かを検討しておくこととする。

(一) 原島は、「昭和四五年二月上旬ころ、箱根仙石原にある学会の箱根研究所内の池田の寝室に呼ばれ、上田雅一、桐村泰次と三人で池田の遺言集を見せられた際、同室の隅に置かれていた浴衣のすそに口紅様の赤いものが付着しているのを見た。その直後、同所の庭で、興奮した様子の上田から、右口紅と関連して、池田と肉体関係のある女性の話を聞かされた。」と証言している。

しかしながら、上田は、「同年二月一一日深夜、正確には一二日午前一時三〇分ころ、三人で遺言集を見せてもらつたことはあるが、口紅様のものが付着した浴衣などは見ていないし、その直後に原島と池田の女性問題を話したこともない。」と当公判廷において強く否定している。

そこで検討すると、問題の日時が上田証言のとおりであるらしいことは、会長記録と呼ばれる大学ノート(No.18)(同押号の16)及び上田のメモ帳⑥(同押号の24)の各記載からうかがわれるが、その余の点については、確かな裏付けに双方とも欠けており、一見水掛論の状態にあり、これだけの証拠関係の下では、真実浴衣のすそに赤いものが付着しそれと見分けられる状態にあつたかどうか、またその赤いものが口紅であつたかどうかを断定することは難しいと思われる。

(二) また、原島は、「昭和四五年二月下旬ころ、東京にある学会施設第二青葉寮の二階で池田が『人間革命』のテープ吹き込みをした際、階下で上田から、今、上では池田が肉体関係を結んでいると聞かされ、その後二階へ上がつていつた際、居合わせた女性の上気した様子からそれが本当であることがわかつた。」と証言する。

しかし、上田は、「同年二月五日、六日に第二青葉寮でテープの吹き込みをしたことはあるが、肉体関係云々の話は全くなかつた。」と前同様否定しており、この点もまた水掛論に終わつている。しかも、原島が現認したとするのは、女性の上気した様子という多分に主観に左右されやすい状況であつて、それ以上の客観的状況はなく、右のことから直ちに肉体関係を推断するのは、もとより無理と言わざるを得ない。

ところで、以上の(一)ないし(二)を通じて、原島の供述は、上田との共通体験という形で目撃事実を述べている特徴があり、同人の証言中には、そのほかにも若干の事実につき上田との共通体験を述べている点があるのであるが、仮にこれらの事実が虚構であるとすれば、原島はなぜ上田の名を引き合いに出して裏付けにしようとしたと理解されるのであろうか。原島は、上田が原島離反後の現在に至るまで学会幹部として組織内に残留しているという立場上、自分に同調してくれるはずのないことを熟知していたと思われるだけに不可解であるように思われる。その点については、真実そのようなことがあつたので、上田が補強証言をしてくれるか否かにかかわらず、そう述べるほかなかつたのだというような見方もあり得ようし、逆に自分とかつて行動を共にする機会の多かつた実在の人物名を挙げておく方が、大方に自然な行動と受けとられ、真実性を演出しやすかつたものだとか、池田と上田の離反を巧妙に狙つたのではないかというような見方もあり得ようが、本件における証拠上は、それらのいずれであるかを断定し得るほどの資料は全く存在しない。

(三) 更に、原島は、「昭和四五年四月下旬、前記箱根研究所に一泊した翌朝、二階の池田の部屋へ山﨑正友、次いで自分が呼ばれた際、池田のステテコの中心部付近に口紅様のものがついているのを見た。」と証言し、また、山﨑は、「自分もその場で右口紅様のものに気が付いた。」とこれに符合する証言をしている。

しかしながら、山﨑正友の黒皮手帳(同押号の38)等によれば、問題の日は四月一九日から翌日にかけてと認められるところ、桐ヶ谷章は、「四月一九日の午後一一時ころ、自分は山﨑と一緒にマイクロパスで帰京し、引き続き徹夜で朝七時ころまで『花汀』でマージャンをともにやつていたから、山﨑が翌朝箱根にいたはずはない。」と証言している。会長記録と呼ばれる大学ノート(No.20)(同押号の18)によれば、四月二〇日午前一〇時三〇分に箱根を出て帰京したメンバー中に原島は含まれているものの、山﨑及び桐ヶ谷は含まれていない記載となつていることが認められ、そうしてみると、山﨑及び桐ヶ谷は既に前夜帰京していたとする桐ヶ谷証言が一応の裏付けを持つていることになり、桐ヶ谷証言に沿う高速道路料金の領収証が存在すること、更に当夜麻雀をしたという「花汀」の請求書があり、これを山﨑の当時の法律事務所の関係支出を明らかにする領収証綴(昭和四五年分)(同押号の39。なお帳簿処理につき同押号の40)中に存在することを併せ考えると、山﨑が同席するところで原島がステテコの口紅様のものを見たという点は、かなり疑問であると思われる。そして、このことは、原島の右目撃証言全体の信用性についても少なからぬ疑問を投げかけると言うべきであり、他に裏付けとなる証拠が存在しない本件証拠関係の下では、その証言内容を到底そのまま措信することはできない。

(四) また、山﨑は、「昭和四九年か五〇年の秋ころ、八王子所在の竹林会館(加住研修所)において、池田が入浴中、上半身裸の女性が池田の背中をマッサージしたりするのを庭側から見たが、それは池田夫人ではなかつた。」と証言している。

しかしながら、竹林会館の工事に関与した業者の仕入帳簿(同押号の54)等関係証拠によれば、風呂場の周囲に使われていたガラスは曇ガラスの一種である日本板硝子製の「かすみ」であつた可能性が高く、そうであるとすれば、「日本板ガラス総合カタログ('80〜'81)」等(同押号の55・56)によると、外部から簡単に内部の様子を細かく見透せる状態にあつたとは考え難いことになりそうである。そして、池田本人がそのような事実を否定しているほか、山﨑の右証言を裏付ける他の証拠は存在しないのであるから、やはりこれだけで右の事実を認定することは無理であると言わざるを得ない。

(五) 原島、山﨑らは、このほかにも若干の事実について証言している部分があるが、それらは、具体性という点で取り上げた例に劣つているほか、どれも客観的な裏付けが不十分で信用性について右と同様に大きな疑問があり、いずれにしても真実証明に資する内容のものとは考えられないから、この上詳細に説示する必要はない。また、弁護人は、池田が身近な学会女性の女児の顔にマジックインキを塗つたことがあることや、池田がその女児と父子関係がないことを明らかにしようとして血液鑑定を行つたことをとらえて、池田に婚姻外の男女関係のある一証左であるとするのであるが、マジックインキを子供の顔に塗るのが遊びとしては必ずしも通常のものではなく、この点に関する池田の証言はそのまま納得できないとしても、そこから池田とその女児との父子関係を推断するのは論理に飛躍があり過ぎるし、血液鑑定をしたこと自体から所論のように性急に結論付けることが無理なことも、池田と渡部の関係に関連して前述したとおりである。最後に、被告人が本件記事を執筆する前に得ていた情報の入手先の一つとして、主に当時における被告人の認識いかんという観点から尋問した証人寺田富子の証言中には、池田と地方の女性幹部との男女関係を示唆するような部分があるが、その証言は内容自体かなり曖昧で、証言態度にも色々問題があり、納得しかねる点が多いほか、客観的な裏付けに欠け、更に、寺田が創価学会を除名される際の経緯から右女性幹部と反目し合う関係にあつたことを考慮すれば、その証言をそのまま措信することはできないと言うべきである。

四 小括

以上の次第であるから、結局のところ、本件摘示事実については、いずれも真実証明がないことに帰する。したがつて、摘示事実の全部又は一部について真実証明があつた場合の法律的処理方法、その法的性質等に触れるまでもなく、本件は、刑法二三〇条の二第一項にいう真実証明の要件を充足しないことが明らかであり、同条項に基づく無罪の主張は理由がないものと言わざるを得ない。

第三  真実性を信ずるに足る相当の理由について

他人の私行上の行状を摘示・公表することが、仮に公共的批判の一内容に当たり、かつ、公益目的によると認められる枠内にあつて、その点では法律上許容される場合であつても、摘示しようとする内容に他人の名誉を侵害するおそれのある事実が含まれているときは、その事実の真実性、例えば関係情報の出所の信頼性、資料内容の正確性等につきあらかじめ克明な調査・検討をし、確実な資料・根拠に照らし真実であると信ずるに足りる相当な理由があることを確かめるとともに、公表にあたつては不必要な名誉侵害を生じないよう公表の方法、限度等につき慎重な配慮を加えておく等の責任ある執筆態度が必要・不可欠と言うべきである。

そして、そのような調査・検討の結果、当該事実を真実と信ずるにつき確実な資料・根拠に照らし相当の理由があるときは、事後的に摘示にかかる事実が真実でないことが判明した場合でも、名誉毀損の罪は成立しないと解される。人は誰でも、自らが執筆者側に身を置くときは表現の自由を最大限度に主張し、逆に批判される側になると一転して他人の表現活動の不当性を指摘し、正当な名誉保護の必要を強調しがちなものであるが、すべての者に対し、表現の自由と名誉保護の双方の利益が等しく保障され得るようにするためには、両者間に右のような調整を図り、調和と均衡を保つことが必要だからである。

ところで右にいう「相当な理由」の内容、程度は、最終的には個々の具体的事例の集積によつて明らかにしてゆくほかはないが、若干敷衍して述べれば、右は事実を摘示・公表しようとするその時点における判断であり、また摘示しようとする事実が、自己の手持の確度の高い資料に照らし直接又は合理性をもつて推論できる範囲内にあることのほか、相手方に反論の機会を与えていないときは、それらの者からの可能な反論を予測し、これを視野に入れて考えた場合にも、なお調査資料の範囲とこれに基づく右推論の手法に無理のないことを健全な常識と思慮を備えた一般人をして納得させるに足りる程度のものであることを要すると考えられる。

そして、そのように慎重な執筆態度がとられていると言えるか否かの判断は、摘示される事実の内容いかんと全く無関係ではなく、例えば、摘示事実の内容が深刻な名誉侵害につながるおそれの高いものであつて、そのため一旦名誉侵害の事実を生じさせてしまうと事後的にその侵害が不当とされたときにも原状回復が格別困難とみられる事項にわたるようなときは、事柄の性質に相応して、それほどでない場合よりも、より以上に確度の高い情報検討と慎重な配慮が必要であり、本件のごとく、宗教組織の指導者と同女性幹部間のスキャンダル記事等という事実も、そのような場合の一つと考えられる。

ところで弁護人及び被告人は、本件記事が、安藤龍也こと武井保から持ち込まれたいわゆる安藤情報を直接の契機として執筆されたことは認めつつ、執筆当時において、被告人が安藤情報ないし本件記事内容を真実と信ずるに足る相当の理由があつたと主張する。そこで執筆当時の具体的事情について以下検討する。

一 安藤情報について

まず、本件記事の直接的な契機となつた安藤情報から検討する。

被告人は、本件記事を執筆する直前ころ、「月刊ペン」の創価学会批判キャンペーンを読んでこれに共感したと称する武井から連絡を受け接触を持つようになり、同人から本件記事中に執筆した内容のほか、戸田城聖に関する各種資料の提供を受け、武井は、自称どおり、かつて米軍情報機関CICの情報部員であり、同人から提供された情報は信頼し得るものと考えたと述べている。確かに、関係証拠によれば、武井は、被告人に対し、自らがかつてそのような立場にいて各種の秘密情報に精通していたように振り舞い、創価学会批判キャンペーンに役立つ素材を必死に探し求めていた被告人及び月刊ペン社から、情報提供の代償として金銭的な見返りを期待し、現に相当額の金員を受領していた様子が明らかである。その点で、被告人の右供述も全く理解できないわけではない。なお、この点に関し、検察官は、武井の司法警察職員に対する供述調書中の「自分は、被告人に対し、自分が提供した情報は裏付けのないものであるとよく話したはずである。被告人としては、慎重にしつかり裏付けを取つてから本に掲載すべきであつたと思う。」との趣旨の記載を援用し、安藤情報が確度の低いものであることは武井自身が明示していたと主張する。しかし、武井が右のような供述をしたのは、自らも共犯者などとして刑事責任を問われかねない状況の下で弁明的供述を余儀なくされていた際であり、およそ対価を期待して情報を提供しようとしていた武井が、同時にその情報の頼りなさを強調していたなどとは通常考えることができない。武井が既に死亡している現在では、その点を本人に確かめる術はないが、少なくとも武井の右供述をそのままに信用することはできないと言うほかない。

しかし、この点は右のとおりであるとしても、安藤情報には、直ちには信頼し得ない不確かな要素が色濃くつきまとつていたことも事実と言うべきである。すなわち、被告人は、昭和五一年一月二一日ころ、突然安藤と名乗る武井から郵送されてきた書面を受け取るまでは、同人とは一面識もなく、その身分・素姓等について何も知らなかつたのであつて、情報の確度を判断する上で最も重要な情報提供者の人物に関する予備知識を完全に欠いた状態にあつた。しかも、それのみにとどまらず、被告人は、四月号の原稿執筆中未だ完成前の昭和五一年二月中旬ころ学会周辺の事情に通じていると考えていたフリーライターの小室朗人から、右資料は反学会組織の幹部松本勝弥から出たもので、同人との関係で安藤は詐欺事件を起こしたことのある人物らしく、どうも要注意人物であるから、右記事の扱いを留保してはどうかとの忠告を受けていたのであるから、具体的にも一層の慎重さが必要な状況にあつたと考えられるのである。これに対し、被告人は、情報の信用性と情報提供者の信用性とは別個のことだと言う。しかし、一般的には提供者のいかんによつて情報の確度が左右されると見るのが自然な理解と考えられるのであり、提供者に問題があるにもかかわらず、なお情報の確度が高いと評価するためには、それなりの特別な事情が存在しなければならないと思われるところ、本件においてはそのような特別の事情をうかがうことはできない。また、情報の内容について見ても、提供されたものが確かにCICに由来することを示すようなものはなく、一見それらしい暗号風の文書もそれだけでは真正なものか否か確定し得るようなものではないのみならず、戸田城聖が謀略によつてカメラを仕掛けた部屋に誘い込まれ女性と情交している現場を秘密撮影したとする現場写真に至つては、隠り撮りされたというよりも情交中の者がカメラを意識してことさらに写されやすいポーズをとつているようにも見える上、一見フラッシュがたかれているように思われること等に照らし、はなはだ怪しげなものであると考えられるのであり、池田の女性関係に関する部分も、とかく具体性に欠け、情報源も明らかでないなど、そのまま信用するのはあまりにも危険と考えられる代物であつたと言うべきである(同押号の12ないし14、81ないし83)。

したがつて、安藤情報は、真実性を信ずるに足る相当の根拠にはなり得ないものと言うべきである。

二 弁護士との相談について

次に、被告人は、本件記事を公にする前、安藤情報を弁護士斉藤一好に示して助言を求め、同弁護士からその内容が名誉毀損罪に当たらないとの回答を得ていた旨主張する。

しかしながら、同弁護士の具体的な回答内容は、被告人自身の捜査官に対する各供述調書によつても極めて漠としか分からないばかりでなく、少なくとも同弁護士が固有の知見に基づき安藤情報に盛り込まれている事実関係の確度を独自に確認・保障し得るような立場にあつたとは考えられないことは明らかであつた。また、同弁護士が法解釈の観点から名誉毀損罪の成否について被告人主張のような助言を行つたことがあると仮定しても、それは、法律面に関するものであつて、事実面に関するものではなく、摘示事実の真実性を信ずるについての相当な理由を基礎づける資料・根拠になるような性格のものではない(そのような法律専門家の立場からする助言は、せいぜい違法性の意識の有無ないしその意識を欠くことについての相当の理由の有無といつた別の局面で問題になり得るにとどまるのであり、本件の場合その助言が犯罪の成立を否定する根拠に結び付くようなものでないことは当然である。)。

三 被告人が従前入手していた情報について

被告人は、安藤情報を入手する以前に多年にわたつて自らも、独自に学会ないし池田にまつわる男女問題の情報を収集していたとして、次のようなものを列挙し、そうした広範な予備知識に照らして安藤情報は信頼し得るものと思つた、更に言えば、安藤情報なしにでも本件記事程度のものを執筆するに十分であつたと主張する。以下それらを通覧するが、類似のものが少なくないので、ここでは便宜一括して検討することとする。

① 昭和三二年ころ岡枝西日本新聞論説委員等から「学会の男女関係は乱れている。池田の女性関係は多彩で、特に渡部・多田とは特殊関係にあるとのうわさが高い。」と聞いた。

②昭和四〇年ないし四四年ころ、大乗教団信者(学会脱退者)及び当時なお学会内にとどまりながら同教団にも来ていた学会員らから、学会内の実情であるとして、「学会の男女関係は乱れている。池田先生から子供を授つたと言つている者がいる。池田と渡部・多田の特殊関係は再三うわさになつている。」と聞いた。

③ 昭和四三年末ころ、内閣調査室職員、西日本新聞論説委員を通じて内閣調査室の秘密資料を短時間借り受けてその内容を見せてもらつたが、それには「学会幹部の男女関係は多彩であり、特に池田と渡部・多田の関係は確定的である。」旨の記載があつた。

④ 昭和四四年ないし四五年初めころ、新橋の芸者梅寿等及び前記大乗教団副管長から芸者仲間のことは同業芸者にはよく分かるとして「石川孝子が池田の二号であるのは事実と考えられる。池田には少なくとも芸者の二号が二人いる。」と聞いた。

⑤ 昭和四四年末ないし四五年初めころ、経済安定本部O・Bのつてを頼つて知り合つた内閣調査室職員から「池田と渡部・多田の特殊関係は確定的である。池田の女性関係は病的なほど乱脈である。昭和四一年四月六日午後三時ころ箱根研修所で学会員の主婦MS(三〇歳)を手ごめにした仙石原事件は、学会内でも余り知られていないが、池田の病的な性格を端的に示している。」と聞いた。

⑥ 昭和四五年ないし五〇年前半ころ、密波羅心観、池内文子、稲垣和雄、小林尚雄、岡部秋人等創価学会対策連合協議会(創対連)関係者から「池田の女性関係は真実と思われる。特に、渡部・多田らについてはうわさが絶えない。これらの者は海外旅行にも再三同伴している。池田の色情狂は、精神病の一種ではないか。」と聞いた。

⑦ 昭和四六年一一月ころ、元創対連副委員長の徳田賀一から「池田と渡部・多田らの関係は、学会幹部で知らないものはないほどである。」と聞いた。

⑧ 昭和四九年末ころ、戸田城聖と大学同期の江崎勝茂から「戸田は、池田が自分の二号にまつわりついて気持が悪いと言つていた。また、戸田は、甲賀平から聞いた話だとしながら、池田は松島という美人宅へ出入りしているそうだと言つていた。」と聞いた。

⑨ 昭和四九年ころ、甲賀平から「池田が松島という美人宅へ出入りしていたのは確実である。小澤は、池田と渡部の衝撃的場面を目撃したと言つている。」と聞いた。

⑩ 昭和四九年ころ、小澤よねから「昭和二九年秋松島方で池田と渡部の衝撃的場面を目撃したが、その内容は低次元であり、話せば報復のおそれもあり、特に信仰仲間以外の人には言えない。」と聞いた。

⑪ 昭和五〇年九月ころ、寺田富子から「池田と地方の女性幹部の情事を二回目撃した。同女性幹部は海外旅行にも同伴している。但し、渡部が同行しているときは手控えて振り舞つていた。池田は、多田を現夫にお下げ渡しした。池田の好みは、自分より背が低く、プロポーションがよく、インテリタイプの女性である。」と聞いた。

⑫ 昭和四〇年九月、学会の中堅幹部であつた加藤英典から「池田と渡部・多田のうわさは常にある。私は、台東体育館での集会直後に青年部会員らから池田と渡部・多田らの関係を聞かされた。また、池田は、雑誌『宝石』昭和四四年新年号の対談中において『もし、それだけの理由と力があつて、しかも誰にも迷惑をかけないという場合には、一夫一婦制の枠外の行為でも私は男性として認めます。』と述べているが、これは本音だと思う。」と聞いた。

⑬ 昭和四〇年九月末ころ日蓮宗系の日向鉄城から「池田の女性関係は多く、病的色情狂である。相手は、渡部・多田から順次他の女性へと移行している。海外でも同伴者や外国女性と乱行に及んでいる。」と聞いた。

⑭ 昭和五〇年一〇月ころ、元学会幹部の上野富男から「池田は色魔であり、渡部・多田は氷山の一角である。富山の二姉妹の件については、佐藤由太郎が知つている。」と聞いた。

⑮ 昭和五〇年一〇月、富山の元学会地区班長である佐藤由太郎から「高岡市の学会幹部の娘二人が池田方のお手伝いに行き犯された。池田の妾は、石川孝子のほか四人いることが判明している。」と聞いた。

⑯ 昭和五〇年一二月中旬ころ、学会系雑誌カメラマンから「池田の海外出張に同行してみたら、米ソでの乱行は相当なもの。同行女性は、渡部らが多い。」と聞いた。

等々のほか、他にも若干の情報を挙示している。

これに対し、検察官は、被告人が右事前情報を差戻後の当審に至つて初めて具体的に述べたことから、そのような情報を事前に入手していたか否か自体がそもそも疑わしいとする。しかし、従前の訴訟経過を仔細に検討してみると、当時被告人がこの点に言及しようとした形跡は公判調書上も確認できるのであつて、検察官主張のような理由のみで被告人がこれらの情報を当時入手していたことをすべて否定し去るのは当たつていないと言うべきであり、これらの情報についても、一応検討を要すると考えられる。

まず、以上の各情報のうち、①②④⑥⑦⑧⑫⑭⑮は、いずれも学会の男女関係が乱れているとか、池田と渡部・多田その他の者との男女関係は確定的であるとかいう内容を含んでいる。そのうち、⑫の加藤英典は当時被告人と会いそのような話をしたことを当公判廷で認めているので、取材したこと自体の裏付けは存するのであるが、それらをも含めて右の各情報は、その趣旨、内容という点になるといずれも極めて概括的あるいはあいまいであり、具体的にどのような事実を確かに掌握した上でそのように断定し得るのかが全く明らかでない。うわさ程度のものを根拠にし、あるいは十分な根拠を持たないまま結論のみを先行させているのではないかとの疑いがその内容自体から色濃くうかがわれるものである。なお、右のうち、⑭⑮に見られる富山の二姉妹の件は、取材源とされる佐藤由太郎の供述が不明確ではあるものの、被告人に対して、そのように話したのではないかと感じさせる節があるところ、右は具体的かつ特徴的な事実を指摘している点で目を引く点があるが、関係証拠によつて右姉妹の父親と認められる山村清一は、当公判廷において、そのような事実は全くないと証言しており、この証言を覆すに足りる証拠は被告人側から何ら提出されていない上、執筆前の情報検討の時点において右情報を信用できると判断するに至つた相当な根拠についても、同様に、全く見るべき立証はなされていない。してみると、これらの情報は真実性を信ずるに足る相当の根拠となし得るようなものではなかつたと考えざるを得ない。

次に、③⑤⑯については、情報源そのものが明らかでない上、その内容も明確とは言えない。すなわち、被告人は、③については、資料を仲介した論説委員の氏名は差支えがあつて明らかにし得ないし、内閣調査室職員の氏名は知らず、資料の体裁も十分鮮明には記憶していないというのであり、⑤については、内閣調査室職員の氏名を、また⑯については学会系雑誌カメラマンの氏名をともに差支えがあつて明らかにできず、そのことのため信用され難くなつてもやむを得ないというのである。したがつて、このような情況の下では、被告人がその主張にかかる、どのような情報を真実入手していたのか皆目見当がつかず、検察官としては反論できず、裁判所としても証拠として評価不能の範囲にとどまつており、到底それ以上のものと扱うことはできない。なお、⑤の中で述べられている仙石原事件は、事実を具体的に指摘している点で目を引く点がある、その内容を聖教新聞(昭和四一年四月七日付)と対比して見ると、池田は被告人指摘の四月六日正午前ころから翌七日午前までの間お虫払い大法会のため大石寺に赴いていたことが認められ(そのような点については同記事に誤りがあるとは考え難い。)、いわばアリバイのある状態にあるのであつて、この点で右仙石原事件は虚構であると考えざるを得ない。いずれにせよ、これらの情報が真実性を信ずるに足る相当の根拠となり得ないことは言うまでもない。

また、⑨⑩は相互に関連しているのであるが、甲賀は、本件証人中では全般的に誠実で、信用性の高い証言態度と見られるところ、「被告人が池田と渡部との関係を取材に来たので小澤を紹介したことはあるが、衝撃的場面などと言つたことはない。」と証言し、被告人の供述と重要な一部について食い違いを見せており、この点は被告人の記憶違いの可能性が高いと見られること、小澤は、「昭和五六年六月正因寺でたまたま池田と渡部の衝撃的場面の内容を話したところ、そこに被告人も居会わせて、私に証言をしてほしいと頼んできた。」と供述し、それ以前の昭和四九年末に既にその件で被告人と面識があつたことには全く触れていないことなど、やや不鮮明な部分もないではないが、今その点はしばらくしておくこととしても、いずれにしても同人らから被告人が聞き得た話の内容は、せいぜい池田の松島方への出入りや具体的な内容を伏せた上での「衝撃的場面」という程度のものであつたと認められる上、裏付けにも欠けており、到底真実性を信ずるに足る相当の根拠になり得るものではない。

次に、⑪については、寺田富子の証言により、取材したこと自体は裏付けられており、その内容中に自ら目撃したとされる部分が含まれているだけに目を引く点があるのであるが、それも直ちに男女関係に結び付く実質を有するものとは断定し難い上、前述のとおり、同人が学会を除名された際のいきさつなどからその女性幹部と激しく反目する実情にあつて、証言内容にもこれが強く反映していることをうかがわせる点が多いことを考慮すれば、他に確かな裏付けのないままその話を受け入れることはできないと言うべきであり、真実性を信ずるに足る相当の根拠にはなり得ないと言うべきである。

最後に、⑬について見ると、関係証拠によれば、日向鉄城は昭和五〇年六月に死亡していることが明白であるから、同年九月末に同人から話を聞いたとする被告人の供述は、誤りと見るほかない(なお、被告人は、昭和五四年にも日向に会つたことがあるとし、自分が会つた人物は写真で確認しても日向本人にまちがいないように思うなどとするのであるが、死亡時期とのずれが余りにも大きく、この点に至つては、到底措信するに足りない。)。したがつて、日向の話に関する部分はその前提を欠き、真実性を信ずるに足る相当の根拠にはなり得ないものと言うべきである。

こうしてみると、前記①ないし⑯の情報は、いずれも確たる根拠とは言い得ないものばかりであり、また、各情報の内容等からみて、それらを全体として総合的に観察してみても格別違つた見方を生じるとは認められない。

四 小括

以上の次第であつて、結局、被告人において本件摘示事実が真実であると信じたことについて、確実な資料・根拠に照らして相当の理由があつたと認めることはできない。

全体を通じて見ると、被告人が本件につき入手していたという資料・情報は、その件数は一見多いように見えるものの、情報提供者の信頼性という基本的な部分の検討がはなはだ不十分であつてその点に大きな欠点を持つている上、内容的にも関連性が薄かつたりあるいは具体性のないものが多く、たまたま具体性のあるものは裏付けをとろうとするとできなかつたり、かえつて破綻をきたしたりし、更に言えば、そもそも裏付取材の質や克明さにもかけていたこと等が特徴的であり、結局情報等の確度を検討する上で必要な詰めを欠き、一方的なものを余りにも容易に受け容れたこと、さらには情報等の内容から直接又は合理的に推論しうる事実と範囲の見極めや推論の手法に強引さがつきまとつていたこと等が本件を招く結果になつたとの印象を拭うことができない(そして、関係証拠によれば、被告人が、本件捜査が進行中の時期に、反学会の立場にあると見られた一般投稿者の高橋信雄に頼つて事前情報の充実振りを作為しようとした様子がうかがわれ、そこには被告人自身、事前情報の質及び量に不安感を持つていたことの一端が現れていると感じさせるものがある。)。

第四  その他の主張について

弁護人の弁論中には、右のほか更に違法性阻却事由ないし責任阻却事由の存在について言及する部分があるが、いずれもその理由がないことは、以上説示したところから明らかである。また、告訴権の濫用、即ち本件につき有効な告訴を欠くかのごとく主張する部分があるが、本件証拠に照らし理由がないことは明らかである。

第五  結論

よつて、弁護人及び被告人の無罪その他の主張は、いずれも理由がなく、採用することができない。

(量刑の理由)

本件は、被告人が、自ら編集局長としてその刊行に関与している月刊誌上に、自らの企画・執筆にかかる創価学会批判記事を掲載した中で、創価学会の最高指導者である池田大作らの不倫な男女関係を、客観的に真実と証明するに足りず、かつ執筆当時においても真実と信ずるに足りるだけの根拠もないまま摘示公表し、その月刊誌を一般市販するなどしてそれらの者の名誉を侵害したという事案である。不倫な男女関係に関する事実の摘示は、往々にして、読者に興味本位に受け取られやすく、一般的に慎重な配慮を要する事柄と思われるが、本件の場合はそれだけにとどまらない。すなわち、本件では事実摘示の相手方が宗教上の指導者等であり、男女関係に関する事実はそれらの者が掲げる精神生活の崇高さといわば対極的位置にあると見られやすい性質の事柄であるために、はなはだ強烈なイメージ・ダウンにつながりやすく、これにより一般学会員にの間に生じる動揺も少なくないと推察され、その点で単に個人的な名誉侵害というだけでは評価し尽くされないものもあるところ、事実を摘示する側にとつてはそのような組織への影響がそもそも本件記事執筆の意図につながつているところもあるという関係にあり、しかも対応措置を講ずればますます問題を大きくしかねない等の事情もあつて、被害者である個人や組織が蒙つた苦痛が一通りでなく深刻であつたことは十分理解できるところである。

言うまでもなく、他人の名誉侵害につながるおそれのある事実をあえて摘示・公表しようとするにあたつては、その公表に先立ち、あらかじめ当該事実の真実性を十分調査し、根拠となる資料・情報の信頼性・正確性を慎重に検討し尽くした上でのことにするとの思慮深い執筆態度が必要不可欠である。どのように立派に見える批判や論評も、正確な事実に立脚することなしには基本的に成り立たないし、また名誉というものは侵害することはやさしいが、一旦侵害してしまつた後に元通り回復することははなはだ難しいものというのが経験的事実だからである。文筆を業とする者が、ブラック・ジャーナリストとの間にあえて一線を画そうとの姿勢を保持せんとするにおいてはなおさらと言わねばならない。そのような観点から本件事実調査の経過を検討するとき、資料・情報等の検討の粗雑・杜撰さ、これらをもとにして認定可能な事実を推論・構築してゆく過程の荒つぽさは覆うべくもなく、昨今同様の傾向が社会に広く蔓延している世情にあるとは言いながら、被告人には強く再考を求めねばならないところがある。

また、同じく不倫な男女関係を取り上げるにしても種々様々の表現方法が可能であつたなかで、本件記事はかなり品位に欠けるところがあり、それが相手方の被害感情を不必要に刺激したのももつともと首肯される一面のあることも否定できない。

このように考えてくると、本件に対する被告人の責任は決して軽いものではない。

しかし、本件については、これとは角度を変て、更に検討を要する点がある。

その第一は、何と言つても、本件記事が前述した通りの理由で、刑法二三〇条の二第一項にいう、公共性と公益目的とをともに肯定されるに至つているとの点である。本件では摘示事実の真実証明をすることはできなかつたのであるが、仮に真実証明に成功しておれば前記条項による免責を正面から受けることが可能なだけの条件は具備していたのであり、真実証明に成功しても免責を受けることのできないような事実摘示にかかる場合と異なつていたことは動かし難いのである。その意味で、本件記事は全く大義名分のない興味本位の暴露記事と同等に扱うことはできず、したがつて、真実性や真実と信ずるに足りる相当の理由等の点についての立証がともに不成功に終つていて、刑法二三〇条の二第一項その他による免責を受け得ない場合ではあるけれども、刑の量定上重要な評価の差を生じることは避けられない。こうして、破棄差戻前の旧第一審判決、同控訴審判決がともに本件記事の公共性を否定していたのとは大きく評価の視点を異にすることとなる以上、右各判決中における量刑をそのまま維持することは到底できない。

次に考慮を要するのは、被告人が本件記事の下敷とも言うべき安藤情報を受け入れやすかつた基盤に、現に学会員であつたり、あるいはかつて学会員であつてその後脱退したり除名されたりした者らの間に、かねてから会内の男女問題、とりわけ特定の幹部に関する男女問題を指摘して学会批判を行う者が存在し、それが外部にも伝わり、被告人の耳にも届くようになつていて、その種の情報を受けいれやすい下地がないわけではなかつたという事情がある点である。もとより、それらの者が学会を離れるに至つた事情は様々のようであるし、それらの者の学会批判の中には一見して学会に対する逆恨みに近い感情に発しているのではないかと感じられる点も含まれている。しかし、ともかく、そうした批判がいずれも学会と全く無縁の外部の者から学会に対して浴びせられているのではなく、学会め一般会員や、更にはそうした中で中堅幹部等の地位に現にあり、あるいはかつてあつたという、いわば学会組織からすればその内部又は周辺にいる者らの口から漏れでていること、しかもそうした種々の批判は学会幹部の誰彼に対し区別なく加えられているというのではなく、むしろ最高指導者である池田個人に対する批判に収歛してゆく傾向が顕著であるように見えること等の点は、組織外の者にとつて色々な意味で特徴的なこととして目を引かれやすいものがあると感じられる。例えば、本件証拠中で度々指摘されている点であるが、会長職にあつた池田の秘書的事務を担当する部局には、常に妙齢の女性がいて、出張先にも同行の上身近に仕え、夜遅くまで身辺の世話をする等の実情にあることは、いかに宗教団体内部のこととは言いながら、世間一般の常識からすれば配慮不足で通常の勤務状態でないように見えるし、加えて、最高幹部である渡部がいろいろな機会に学会関係部局の出版物中で、ことさらに池田から親しく指導を受けた様子を強調して記述していたり、池田自身が市販雑誌の対談記事中で、冗談としながらも、「それだけの理由と力があつて、しかも誰にも迷惑をかけないという場合には、一夫一婦制の枠外の行為でも私は男性として認めます。」などと、聞きようによつては誤解されかねないことをあえて述べていたりしていることも、学会幹部の男女問題に疑惑を感じていた者らにとつてはやはりそうであつたかと思わせる素地につながつていることを否定し難いのである。もとより、この程度の情報だけで男女関係を真実と信ずることなど到底できるものではなく、被告人が、そのように確度の高いとは言えない情報を十分な検証作業もしないまま信用した点は軽率のそしりを免れない。しかし、そうではあつても、学会組織の内部ないし周辺から聞こえてくる情報があつたために、これに沿つて学会批判を企図したものであるということだけは否定できないのであり、してみると、被告人の本件犯行を招いた遠因として、池田の身辺の若干配慮を欠く執務態勢、池田、渡部らの一部言動など学会側の不用意さと、それをすぐ男女関係の徴表に結びつけてみる脱退会員側の、いわゆるロュミ活動、換言すれば組織の亀裂の存在が大きくあずかつて力があつたことを指摘せざるを得ない。こうして見ると、本件は何の根拠もなく事実を全面的に捏造・摘示したのとは事情を異にしており、そこには量刑上酌量の余地があると考えられる。

更に考慮を要すると思われるのは、本件が旧第一審係属中の時期に、被害者である学会側と加害者である被告人側との間で話し合いがもたれた結果、被告人が詫び状を差し入れ、学会側が告訴取下げ手続をとることとなつたほかに、被告人側からの池田に対する証人申請をしないよう求め、そのこととの関連で被害者側(創価学会側)から加害者側(被告人側)へ二〇〇〇万円、二六〇〇万円、あるいは三〇〇〇万円とも言われる高額の金員が支払われるという、本件の具体的な訴訟手続とからませた取引がなされた事実が認められる点である(右金員支払の趣旨を右のようなものではなく、一般的な右翼対策費であるかのごとくに言う者もあるが、右交渉の学会側責任者で金員捻出の衝にも当たつた北條浩が、検察官調書謄本中で、前記認定どおり供述していること、更に右金員交付の時期と旧第一審訴訟手続進行段階との関連や、右金員が月刊ペン社側に支払われ、引き替えに同社側弁護士の領収証が差し入れられたという山﨑正友証言に対し見るべき反証が提出されていないことその他関係証拠の現状に照らすと、前記のとおり認定するほかない。)。もとより、事件が一旦起訴され係属中の時期に加害者側と被害者側とで示談等の話し合いがされ、詫び状の差入れ、告訴取下げ等の手続がなされることがあるのは格別珍しくないし、おかしくもない。しかし、加害者側が金員を支払つて謝るというのでなく、被害者側が右のように高額の金員を支払うという話し合いは極めて異例・不可解と言うほかはない。しかも被害者側から支払われた右金員は、被告人の手には渡つていないようであり、結局どこへ行つたか本件証拠上明らかでないのであるが、行き先はどうであれ、学会側が、このように高額の金員を通常とは異なる特殊な調達方法で用意してまで支払うこととした顛末には納得できないものが残るのである。なお被告人は、学会側との右交渉の結果、昭和五二年三月本件記事掲載について詫び状を差入れた点につき、右金員交付をめぐる話も全く聞かされておらず、その他本意でなかつたかのごとく種々理由を挙げて述べている。被告人が、当時の担当弁護人らから、相手方との交渉経過につきどの程度の説明を受けていたか本件証拠上明らかではないけれども、しかし詫び状の文面や作成・提出の経過からすれば、その時点としては、少なくとも詫び状についてはそれの持つ実質的な意味を概略理解・納得の上作成、提出したものと認めざるを得ないのであつて、仮に、被告人としては勤め先の月刊ペン社側からの圧力等のため経済上の問題もあつて応じざるを得なかつたとの経緯があつたとしても、全く不本意な詫び状差入れに至つたとまで言うのは当たつていない。しかし、ともあれ、被告人の刑事責任を問う訴訟の中で、しかも名誉毀損のごとく被害者側の真摯な処罰感情が重要な量刑要素となる犯罪において、被害当事者の証人出廷回避を求めたい余りとは言いながら、前記のとおり被害者側により、不明朗で真意をはかりかねる告訴取下げ等の手続がとられていることは、やはり本件量刑上考慮せざるを得ないところと考えられる。

以上のような、主として当審における審理によつて初めて明らかとなつた事情のほか、従前から指摘されていた諸事情、すなわち、被告人は過去において創価学会批判書の出版を同会から組織ぐるみで妨害されたことがあり、これに対する不快感のあつたことが本件犯行の一動機となつていないとは言えないこと、被告人は長年にわたる言論執筆活動の間ジャーナリストとして真摯・真面目な生活を送つてきたこと、これまでに前科・前歴が全く存在しないこと等を総合考慮すれば、本件に対しては、現時点で被告人の摘示事実が真実と認められず、執筆時においても根拠となる確かな資料は十分でなかつたことを明確に指摘し、かかる執筆態度は法律上許容されないことを明らかにし、あわせて本件をめぐる各種の疑惑・憶測にけじめをつければ、本裁判の目的の大半を達することができ、起訴後やや特異な経過をたどつたこの段階で、なお重い科刑を必要としあるいは適当とする事情があるものとは思われないので、所定刑中罰金刑を選択した上で主文のとおり量刑する。

よつて、主文のとおり判決する。

(秋山規雄 永井敏雄 合田悦三)

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